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日本近現代史(日文)之六

发布时间:2006-09-15
 

2 明治国家の成立と東アジア侵略
2-1 明治政府の対外政策
2-1-1 幕末,明治の人々と朝鮮・中国
 明治政府の対外政策といった場合,それは,まずはロシアに対してであり,中国に対してであった。それは,前記した明治政府の国境画定作業時における,北方の島々の帰属を巡る,ロシアとの交渉,そして,同じく,南方の琉球の帰属を巡る中国(清国)との確執であった。

しかし,明治政府が最も重視していたのは,朝鮮国との関係であった。それは,明治政府成立時から始まった,「征韓論」をめぐる対立となって現れたし,1875年の「江華島事件」として、朝鮮国に対する侵略の第1歩ともなったのである。明治初期からの,朝鮮国に対する,日本政府の政策は,その後の日本の東アジア政策の第1歩であり,典型としても現れたのである。

 しかし,明治政府の対朝鮮政策を見るときに,欠かせないのは,明治維新をになった,幕末の薩摩,長州の倒幕派の思想である。まずは,彼らの朝鮮,中国観から見てみたいと思う。

 幕末の尊王攘夷派の思想的指導者であり,今も日本人の多くから尊敬されている吉田松陰は、1856年、弟子で長州尊皇派の若手の中心人物、久坂玄瑞の「外国の使者は切るべきである」との主張に対して,「徳川氏が,アメリカ,イギリスと和親条約を結んだ今,これを日本から破るべきではない。それよりも,この条約をしっかりと守り,アメリカ,イギリスがおとなしくしている間に,北海道を開拓し,琉球を日本のものとし,朝鮮を攻めて日本の領土とし,満州,中国を支配し,インドまで日本の勢力を伸ばし,日本の繁栄の基本を固めるべきである。こうすることは,神宮皇后や豊臣秀吉がやろうとしてできなかったことをすることである。」とのべている。

 この松陰の思想には,朝鮮,中国といった隣人に対する思いやりなど微塵もない。あるのはむき出しの自国の利益とそのための侵略思想である。松陰だけでない。明治日本の思想的指導者であり,近代教育の祖ともいわれ,現代日本のお札のモデルにまでなっている福沢諭吉は1885年(明治18年)3月16日 「時事新報」に掲載された論説の中で次のように述べた「日本はアジアの東の端にあるが、すでに古いしくみを捨てて、ヨーロッパの新しい文明を受け入れ、文明国への道を進んでいる。しかし、日本の隣の朝鮮、中国はいまだに古い国のしくみのままで、少しもヨーロッパの新しい文明を受け入れようとはしていない。それどころか、日本の幕末の志士のように、それを変えるために努力をしようという人もいない。このままでは遅かれ早かれ、ヨーロッパの国々に飲み込まれ、支配され、国がなくなってしまうであろう。同じアジア人の国である日本は、これらの国々が文明化するのを待つ余裕もそのために協力する余裕も無い。そんなことをするよりも、それらのどうしようもない国と付き合うよりも、ヨーロッパの進んだ文明国と付き合ったほうが日本にとってよほどよいことである。朝鮮、中国と接する時は、ヨーロッパの国々が接するのと同じやり方で接すればいいのである。悪友に親しむものは、ともに悪名を免れることはできない。われわれは心においてアジア東方の悪友との付き合いを断るべきである。」

 福沢のこの,朝鮮,中国に対する蔑視思想はどうだろう。この人物は,実際に朝鮮王朝転覆のために活動するのだが,明治日本の知識人や一般民衆に至るまでに大きな影響力を持っていた福沢のこの発言がどれほど,日本人の中に朝鮮,中国への蔑視思想を植えつけたことだろうか。影響は計り知れないのである。自由民権運動の指導者の中にも,同じような人物はいた。

 自由党内最左派で,過激なまでな自由主義者といわれた大井憲太郎と,その同志達が起こした大阪事件はその典型的な事件である。大井らは、朝鮮政府内で,反日的勢力が強い事を知ると自ら朝鮮に渡り,親日勢力のクーデタを起こさせようとした。彼らは,朝鮮での,親日派のクーデタが,日本におけるナショナリズムを呼び起こし,そのことによって自由民権運動を発展させようとしたのである。この思想には,朝鮮民衆の幸福だとか,朝鮮の自立といった思想はまったくなく,ただただ,日本の自己の運動の発展のために朝鮮を利用するといったエゴイズムがあるだけであり,根底には,前出での二人と同じ蔑視思想があるのである。

 そして,このような朝鮮,中国に対する蔑視思想の典型が,明治政府の初期の大問題となった「征韓論」である。明治維新が成功するとすぐに,政府部内では,「朝鮮出兵」が検討された。理由は,朝鮮国政府が,日本の開国勧告に従わなかったからである。日本の隣国,朝鮮国は「李氏」による王朝政府が続いていたが、日本の江戸時代と同じ鎖国政策をとりつづけていた。

 明治新政府は,欧米列強に結ばされた不平等条約の改正を進めるために,日本が朝鮮国を開国させ,交際社会の国を開かせることによって,条約改正交渉を進めるだけの資格がある国であることを示そうとした。つまり,遅れた弱小国と見られていた日本への見方を変えさせようとしたのである。また、開国を拒否した遅れた国,朝鮮と戦争することによって,日本国内の政府に対する不平,不満を外国へ向けさせようとしたのである。維新の英雄,西郷隆盛は日本使節代表として,朝鮮に赴き、開国要求が拒否された時に,朝鮮王の前で自ら切腹して果て、「西郷自刃す」をきっかけに,開戦すべしとまで主張した。この征韓論は、大久保利通らの「時期尚早」との反対論にあい,実現しなかったが、この対立は,明治政府の分裂を招き,西郷の下野,そして西南戦争へと向かう原因ともなったのである。このときの西郷とともに下野したのが,後の自由民権運動のリーダーとなった板垣退助である。板垣退助が激烈な,征韓論者であったことからも,自由民権運動家といえども、朝鮮に対しては,決して,自由民権論者ではなく、朝鮮蔑視主義者であったことをよく示しているのである。朝鮮民衆の自由や民主主義などどうでもよかったのである。西郷らの征韓論を時期尚早と反対した,大久保らも、西郷が下野するとすぐに、自ら江華島事件を起こし,朝鮮侵略の第1歩を始めたのである。

コラム 朝鮮通信使
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 日本人が,明治以前から朝鮮,中国に対して蔑視思想を持っていたかというと,それはまちがいである。日本は古来から,それらの国を通して,様々な文化を学んできた。そのために,それらの国に対しては,尊敬の念を持っていた。それは,裏を返せば劣等感といってもいいかもしれない。しかし,為政者はともかくとして,民衆レベルでは,そうであった。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって,一時国交が絶えていた両国は,江戸時代初期の徳川政府の謝罪によって,良好な関係が復活した。
江戸時代には,将軍の代替わりがあると,朝鮮国から「朝鮮通信使」と呼ばれる使節が日本を訪れた。計12回に及ぶ、使節の来日は、毎回400~500人の大使節団で,政府の正使だけでなく,多くの朝鮮芸術家,学者,職人を伴っており,さながら,文化使節のようであった。迎える日本側も,使節来日の1年以上前から,歓迎の準備を整え,来日時には,その道々で大歓迎の式典が催された。日本民衆も同じで,使節一行を一目見ようと,道々は人の波で埋め尽くされた。宿泊所には,日本じゅうから,様々な分野の芸術家や学者が集まり,訪問した。朝鮮語はできなくとも,両者は漢文で交流し,日本側は,進んだ学問や技術を朝鮮側から学んだという。ここには,蔑視の思想など微塵もなく,あるのは相互の尊敬と信頼だけであった。このような関係が変化し,壊されていったのは,明治になってからである。
両国にとって,悲しい歴史が始まったのである。

2-1-2 朝鮮への侵略政策の始まり
 征韓論による,政府の分裂からわずかに2年の後の1875年(明治8年)5月25日、鎖国政策を続けていた隣国、朝鮮国に対して、明治新政府(日本政府)は、軍艦“雲揚"をはじめとする3隻を派遣した。まず3隻は、釜山の港に強硬に入港すると、"演習"と称して、毎日大砲をぶっ放した。驚いた朝鮮政府が抗議したが、聞き入れず、ますます激しく大砲を撃った。その後、3隻は、朝鮮国の沿岸を大砲を撃ちながら北上して、9月20日、朝鮮国の首都"ソウル"の入り口である"江華湾"に強硬入港し、碇を下ろした。びっくりして見守る朝鮮政府と首都を守る"江華島守備隊"(朝鮮の軍隊)の前で、日本軍はボートを下ろし、平然と湾の測量と湾に入り口にあった、朝鮮守備隊の砲台を偵察し始めた。朝鮮守備隊は"警告のために空砲"を一発撃った。すると、この空砲をきっかけに日本の軍艦が一斉に大砲を撃ち、攻撃を開始した。この攻撃によって、朝鮮守備隊の砲台は破壊され、逃げ惑う朝鮮兵は狙い撃ちにされ、殺された。日本の軍艦は戦利品として、朝鮮軍の大砲38門を奪い、日本に帰っていった。

 この事件について、日本政府は「水を求めて、たまたま朝鮮国に上陸したところ、一方的に攻撃されたので、仕方なく攻撃した。」と発表した。翌年、1876年(明治9年)1月15日。日本政府は"黒田清隆\"を全権代表とする、派遣団を造り、軍艦5隻で朝鮮国に向かった。まず、釜山港に入港すると、毎日大砲をぶっ放し、その後、江華湾に向けて出発した。江華湾につくと、前年の"事件"について、話し合いをしたいと朝鮮政府に申し入れ、話し合いをしないならば"兵隊3000名"を上陸させる。その後も数倍の軍艦と兵隊が続いてくる"と脅した。びっくりした朝鮮政府は、話し合いに臨み、2月26日、日本政府が要求した“日朝修好条約”を結んだ。

 これが,史上有名な「江華島事件」のあらましである。この事件を見ると,日本に対してアメリカ艦隊が行ったことにそっくりである。それもそのはず,日本政府は,アメリカ艦隊司令官ペリーの日記を読んで,それをそのまま真似たのである。近代における日本と朝鮮の不幸な関係はまさにこの事件に始まったのである。

 この時に日本が朝鮮国に押し付けた日朝修好条約のなかみは,これまた,アメリカが日本に押し付けた,不平等条約、日米修好通商条約と同じであった。朝鮮国側には,関税自主権がなく,朝鮮国における日本人の犯罪を裁く権限もなかった。日本は,アメリカにされたことを朝鮮国にやり返したのである。ただ,この条約は,その第1条で,「朝鮮国は独立国であり,日本国と平等の権利を持つ」と規定し,朝鮮国に対する,清国の優越権を否定させたのである。この事は,日本がその後,朝鮮を植民地化する意図を明白にしたことを示しており,日清戦争へと続く道をも自ら示したのである。この様にして,日本政府は,朝鮮国を開国させると,以後,朝鮮国に対する執拗な干渉を始めたのである。

 開国後の朝鮮には,日本商人が押し寄せた。彼らが求めたものは,朝鮮の米や大豆であった。日本よりも安い,それらを買い求めた商人達は,これを日本に持ちこむことによって,利益を得たのである。日本人商人による,朝鮮の米,大豆の買占めは、朝鮮のそれの価格を上昇させ,朝鮮民衆を飢餓に追い込んだ。また,日本人商人の傍若無人な行いは朝鮮民衆の怒りを買った。民衆の怒りは,日本政府に面従する、朝鮮政府とその中心人物、閔妃一派にむかった。反対勢力は、国王の実父である大院君を押し立てて,反乱を起こした。壬午軍乱である。反乱軍は,首都ソウルの日本公使館を襲った。これに対して,日本政府は軍隊を送り鎮圧した。また,清国も朝鮮政府の要請にしたがって派兵した。この事件以後,朝鮮政府は清国に接近し,日本と清国の朝鮮を巡る対立が深まっていったのである。朝鮮国における,清国の優位を覆そうとした日本政府は,朝鮮国内の親日勢力“独立党”を影で支援し,クーデタを起こさせようとした。独立党の指導者であった金玉均、朴泳孝らを日本に留学させ,洗脳したのである。このとき彼らの教育にあたったのが福沢諭吉である。

 「朝鮮にも明治維新のような近代革命を起こさなければならない」こう考えるようになった,彼らは,朝鮮においてそれを実行するためのクーデタを起こした。甲申事変である。彼らのクーデタを支えたのが日本軍であった。一時成功したかに見えたこのクーデタも,清国軍に支援された,朝鮮国政府(閔妃一派)に鎮圧され失敗した。この事件で,日本と清国の朝鮮を巡る対立は決定的となり,日清戦争へと歴史は流れていったのである。
朝鮮に出兵した日清両国は、直接の対立を一時避けるために,条約を結んだ。天津において日本代表の伊藤博文と清国代表李鴻章の間で結ばれたこの条約で、両国は,どちらか一方が朝鮮国に出兵する時は,双方が連絡をすることを約束した。天津条約と呼ばれるこの条約にしたがって,日清両国がこの後朝鮮への出兵したことが、日清戦争へと発展することになったのである。日本国内では,朝鮮を巡る清国との対立がたかまるにつれ、清国への対抗心が強まり,一気に好戦気分が高まったのである。

2-1-3 不平等条約改正問題と東アジア侵略の関係
 明治政府にとって,対外政策においてのもう一つの大きな問題は,欧米諸国との間に結ばれていた不平等条約の改正問題であった。江戸幕府が結んだこの不平等条約を早急に改正することは,日本が近代国家として発展していくためには欠くことのできないものだった。条約改正交渉は、明治の初年より行われたが,欧米諸国は,なかなか応じなかった。欧米諸国の言い分は「日本がまだ,国家として未熟である」ということだった。欧米諸国と対等な国とはみなされなかったのである。「いっぱしの大人の国」と見なされるために,日本政府が取った政策の一つが,朝鮮国や清国に対する政策でもあった。朝鮮国を開国させることは、日本の国力を示すことでもあった。アジアの隣国に対しての強力な外交政策は,日本を一人前の国と認めさせることにもつながった。一方で,文化的にも遅れた国ではないことを示すために,明治政府がとった政策が“欧化政策”である。文化の面で,欧米の真似をすることである。政府は,鹿鳴館という,欧風建物をつくり、ヨーロッパ音楽にヨーロッパダンスでの舞踏会を開き,欧米の外交官,商人を招いた。日本政府の要人や貴族達は,洋風のドレスやタキシードを着て、社交ダンスを踊り,招待した,欧米外交官の前で精一杯の文化国家ぶりを演じたのである。

 しかし,条約改正は,このような「文化国家ぶり」や「強行外交政策」からは生まれなかった。欧米諸国,特にその代表でもあったイギリスのアジア政策の中での日本の役割から生まれたのである。イギリスにとってのアジア政策とは,対ロシア政策であった。後発の工業国として出発したロシアは、自国の発展のために,南方への進出を目指していた。ロシアの南下政策である。それは,黒海地方であり,中央アジアのアフガニスタンであり,中国北方の満州であり,日本の北方,千島,樺太であった。この事は,その地方での勢力拡大を目指していたイギリスとの衝突を意味していた。それが,クルミア戦争であり,アフガニスタン戦争である。

 東アジアにおけるロシアの南下を防ぐためには,中国北方、満州へのロシアの進出を防ぐことであった。このために利用できる国が日本であった。日本は,北方地域でロシアとぶつかっていた。また,朝鮮を巡って,清国とも衝突していた。朝鮮国を日本の支配におくことは,そのそとにある満州へのロシア進出を食い止めるための壁になるはずである。朝鮮を押さえ,満州を日本が支配することが必要であった。ただし,日本とイギリスは,友好的でなければならない。決して,日本一人に,その地域の利益を得させてはならないのである。日本の役割は,あくまでも,ロシアに対する壁なのである。これは,イギリスの同盟国である,アメリカにとっても同じであった。このイギリス,アメリカと日本との関係が,その後に東アジア情勢を決定していったのである。朝鮮国を巡る,日本と清国との対立の激化は,イギリスの態度を変化させた。イギリスは,日本の清国への開戦,及び,朝鮮国の支配を条件に条約改正に応じたのである。日本は,清国と一戦交えざるを得なくなったのである。日本政府にはその自信はなかったにもかかわらずである。清国は衰えたりといえども,日本にとっては,大国であった。

コラム ロシア
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 日本人にとって,ロシアとは幕末以来の「敵国」であった。江戸時代の,択捉,国後両島の帰属を巡る衝突,明治の朝鮮,満州を巡る衝突と戦争,大正時代のシベリア出兵,アジア,太平洋戦争での度重なる軍事衝突と最後のソ連軍の満州侵入。戦後では,北方諸島のソ連占領に始まる,北方領土問題。日本人にとっては,ロシア人は悪しき隣人でしかなかった。今もそうである。だから,日本人は悪意をこめて,ロシア人のことを「ロスケ」と呼ぶのである。しかし、ロシアを本格的に敵視し始めたのは,明治の日清戦争前夜からである。ロシアの南下政策は,日本の脅威であり,日本の領土を脅かす敵であるとの宣伝がさかんに政府によって行われたからである。明治の元勲の一人であり,日本陸軍創設者でもある山県有朋は、帝国議会で「ロシアから,日本領土を守るためには,朝鮮を日本の利益線として,日本の防波堤としなければならない」と述べた。つまり,日清戦争,日露戦争は,ロシアから日本を守る,祖国防衛戦争なのである。この論理が,ロシア憎しの感情を醸造し,戦争を肯定する,民族主義を高めたのである。日本はこの後,1945年の敗戦まで,この論理で,戦争の道を突っ走ることになったのである。

2-1-4 日清戦争
 度重なる,日本の干渉にもかかわらず,朝鮮政府は清国への依存を高めたために、日本の影響力は低下していった。貿易においても,日本との貿易は低下していた。このような情勢を打開し,朝鮮国への支配をいっきに高めたいと願っていた日本政府にとって、もっとも有効な政策は,清国との戦争であった。日本政府は,甲辛事変以後、ひそかに清国との戦争の準備を進めた。あとは,きっかけだけであった。それは,朝鮮国における農民反乱から始まった。

 日本をはじめとする諸外国の朝鮮国内への経済的な進出は,朝鮮民衆の生活を根本から脅かした。特に農民層の貧困はひどいものだった。これに対して,朝鮮政府は無策であった。朝鮮農民は東学という,宗教団体を中心に団結し,たちあがったのである。“東学党の乱”とも呼ばれるこの武力蜂起は,全棒準という優れた指導者によって,全国に広がった。反乱軍は,地方の汚職役人,日本人商人と結んで朝鮮農民を苦しめている朝鮮商人,高利貨しなどを襲った。朝鮮政府は直ちに軍隊を送って,これを押さえようとしたが,朝鮮軍の兵隊もまじめに戦わなかったという。民衆の圧倒的支持を得た,反乱軍はいっきに首都ソウルに迫ったのである。

 恐れおののいた朝鮮政府(閔妃一派)は、清国に助けを求めた。これに応じて,清国は朝鮮に出兵した。チャンス到来である。天津条約に基づいて、報告を受けた日本も同時に朝鮮に出兵した。朝鮮国内に日清両軍が合い対峙することになったのである。日本軍は直ちに,農民反乱軍を鎮圧すると,指導者 全棒準を逮捕し処刑した。こうして,農民反乱は日本軍によって,壊滅さえられてしまったのである。農民反乱は収まった。しかし,日本軍も清国軍も朝鮮から退去しなかった。このチャンスを逃してはならない。何とかして,清国軍と戦端を開き,これを打ち破らなければ,日本の朝鮮支配の道は開けなかった。日本政府のとった戦略はこうであった。日本軍は,朝鮮国の内政改革を求める要求書を朝鮮国政府につきつけたのである。これが受け入れられないことは明白であった。口実を作るためであった。この要求が拒否されると,朝鮮王宮を急襲し,閔妃一派を追い払い,国王の実父、大院君を王座につけたのである。こうして,傀儡政権を作ると,朝鮮国政府の名において,清国軍の国外退去を要求させたのである。もちろん,このような無謀な日本政府の策略に、清国は軍隊の退去を拒否した。

 日本軍はここに,清国軍を攻撃する口実が生まれたのである。「朝鮮国政府の退去要求を無視して,朝鮮国内にとどまる,清国軍を朝鮮国政府の要請によって攻撃する」のである。1894年7月25日、豊島沖に停泊する清国艦隊を日本海軍が攻撃,陸上では、牙山に駐屯していた清国軍を陸軍が急襲した。8月1日には、明治天皇が宣戦の詔勅を発し、ここに日清戦争が始まったのである。この戦争は、日本によって計画され、始められた戦争である。しかし、欧米諸国は、開国からまだ日の浅い日本が、衰えたりといえどもアジアの大国であった清国に勝てるとは思っていなかった。日本の政治家の中にも、開戦に消極的な者も少なくなかった。決して、簡単に勝てる戦争ではなかったはずであった。しかし、実際には、あっけない戦争であった。戦線は日本の圧倒的勝利のうちに進められたのである。朝鮮国内の清国軍は簡単に国外に追い払われた。これを追った日本軍は清国内に進出し、旅順を占領し、遼東半島を支配下に置いたのである。海軍も同様であった。東アジア最大の海軍力を誇っていたはずの清国海軍は黄海海戦で日本海軍に打ち破られた。清国軍はまったくといっていいほど、戦意を見せなかったのである。日本軍の圧倒的勝利の前に、わずか9ヶ月でこの戦争は終わったのである。

 そして、1985年4月、下関において、日本、清国の間に下関条約が結ばれた。条約の内容は、①清国が朝鮮の独立を認める。(今後、朝鮮に口を出さない)②遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に与える③清国は日本に賠償金2億テール(約3億1000万円)を支払うであった。日本は、この戦争で、おそらく(琉球をのぞけば)日本の歴史上初めての海外植民地を手に入れたのである。

コラム 甲午農民戦争
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 日清戦争のきっかけとなった、朝鮮の農民反乱「甲午農民戦争」については、かって、新興宗教集団「東学党の乱」と呼ばれ、その評価は決して高くはなかった。しかし、研究が進むにつれて、評価が高まり、「農民戦争」と呼ばれるようになった。それは、この農民軍が目指したもの、そして実施したことが、“アジア最初の農民による民主主義革命”の要素を持っていたからである。特に朝鮮においては、最初の民主主義革命運動であったことは確かである。農民達は、・日本、欧米諸国の侵略に反対し・身分制度の廃止を要求し・万民平等、平和の国の建設を目指していた。実際に彼らは、朝鮮南部を支配し、農民政府を作ると、悪徳役人や商人を処罰し、すべての借金を無効とし、税金を廃止し、身分制度をあらわすすべてのものを廃止したのである。また、諸外国の侵略には反対したが、対等平等な関係ですべての国と交流することを目指してもいたのである。

 かって、日本政府と日本知識人が支援し、育てた朝鮮の近代化勢力の知識人たちと比べると、農民である彼らのほうがいかに民主的であったかがよく分かるのである。また、この農民達を軍隊によって殲滅した日本政府の「近代化」がいかに非民主的であったかもよくあらわしているのである。農民反乱の指導者、全棒準を逮捕した日本軍は、彼に「日本に協力するならば、命は助ける」と申し入れた。この時、彼は嘲笑したという。

 この嘲笑は、日本の愚劣さに対するものであろう。この気高さ、幕末以来の日本の指導者にどれだけ、これほどの人物がいただろうか。彼は、形式的にかけられた裁判でこう証言した。「百姓の血を搾り取って、肥え太る者をのぞくことがなぜ悪いのだ。人が人を売買すること、国を外国に売り渡して儲けるもの、土地を一人占めして肥え太る者、こういうものを討つことが何がまちがいだ。私を裁いているお前たちこそ、外国を利用して、結局は自分の国を外国に売り渡す輩だ。その罪のほうがもっと重大なのに、私を罪人と呼ぶのか」。これに答えることができるものが朝鮮にいなかったこと、そして、もちろん、日本にもいなかったことが、この後の歴史を象徴しているのである。

コラム 日清戦争宣戦の詔勅
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 日清戦争における、明治天皇の宣戦の詔勅は、日本がこの戦争を始める口実をどのように作ったかをよくあらわしている。その意味で、一読に値するものである。
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 天によってその位を授かり、何千、何万という年月、その血筋を守ってきた、大日本帝国皇帝であるわたしは、わたしによく従い、勇ましく、力強い、おまえたち、日本国民に伝える。

 私は、ここに清国に対して戦争をすることを宣言する。

私の家来であるすべての役人、一般の国民は私の気持ちをよく理解して、陸上でも、海上でも、清国に対してしっかりと戦い、日本国がこの戦争をする目的を達するように努力しなさい。

 私が考えるに、朝鮮国は日本が最初に鎖国をやめさせて、新しい国造りを始めるのにいろいろと手助けをした独立国である。それなのに、清国はことあるごとに、朝鮮国を自分の国の従属国であると言って、朝鮮国の政治に口を出し、朝鮮国に内乱が起きると、自分の従属国だからと、清国の軍隊を朝鮮国に出兵した。私は、明治15年の清国との条約に基づいて、日本も軍隊を朝鮮国に出兵し、朝鮮国の平和と安全を守ろうとした。これは、朝鮮国だけでなく、東アジアの平和と安全を守るためにもそうしたのである。

 その上で、私は、清国の皇帝に告げた。朝鮮国の平和と安全を守るためには、清国の軍隊はすぐに朝鮮国から引き揚げるべきであると。

しかし、清国はいろいろな理由をつけてごまかし私の助言をまったく聞かない。こうなっては、朝鮮国、および、東アジアの平和と安全を守るためには、清国に対して戦争をして、わからせるしかないと私は判断した。

 私の、忠実で勇敢な家来である、日本の国民よ、おまえたちの勇気と努力で、清国をすぐに打ち破り、朝鮮国と東アジアの平和を作り、偉大なる、大日本帝国の栄光を守りなさい。
( 川手晴雄要約・・文責川手晴雄)

コラム 日清戦争での日本軍の蛮行
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 日本では、近年、歴史文学者の第一人者であった、司馬遼太郎氏などにより、日清、日露戦争は、祖国防衛戦争であったとの主張が強くなされている。また、昭和の戦争と比べて、明治の戦争は、日本はよく国際条約を守り、優等生的な戦争をしたなどとも述べられている。

 しかし、これはまったくのまちがいである。日清戦争での、日本の蛮行は、中国側からだけでなく、従軍した日本人記者によっても証言されている。旅順に侵攻した日本軍は、婦女子を含む、非戦闘員を6万人虐殺した。これは、アメリカの新聞によって明らかにされ、諸外国から非難されたが、「非戦闘員を装った戦闘員を殺害したもの」と日本政府は強弁した。

後年の南京虐殺に通じるこの事件はこうして、日本では報道されなかったのである。それだけでなく、中国国内に侵攻した日本軍の略奪行為は、中国人の深い憎しみをかった。決して日本軍は優等生でもなく、日本の戦争は国際条約を守っていたわけでもなかったのである。

コラム 日清戦争と好戦気分
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 日清戦争に対する、日本国内の反応は「好戦気分」の洪水であった。国民は戦勝気分で沸き返り、新興の新聞各誌は、国民の好戦気分をあおった。そして、知識人たちも同じであった。福沢諭吉は、この戦争は「文明と野蛮の戦争であり、文明の日本にとっては、正義の戦いである」と新聞に書いた。キリスト者、内村鑑三ですら「日本は東洋における進歩主義の戦士である。ゆえに、進歩の大敵、支那を除き、日本が勝利することを望まない国は世界にあるわけがない。この戦争は、日本にとって義戦である。」と述べた。新聞各社は従軍記者を戦場に送り、日本軍の勇ましさを書き、中国側の弱さを書いた。中国国内では、中国人の貧しさや、卑しさを書き、中国に対する差別感を植えつけた。政府は、日本軍の勇ましさを宣伝するために、軍国美談を捏造し、軍神を作り上げた。これらの、美談は1945年の日本の敗戦まで、日本の若者を洗脳しつづけ、多くの若き命を失わせることに貢献したのである。

2-1-5 三国干渉と閔妃暗殺
 日清戦争の勝利に沸く日本の頭に冷水を浴びせるような事件が起きた。これが、三国干渉である。1895年、ロシア、ドイツ、フランスの3国は共同で、日本に対して、下関条約で日本が清国から譲り受けた遼東半島を清国に返すように勧告した。理由は、清国と朝鮮国の安全を脅かすというものだった。日本の遼東半島領有は、南下政策を続けていたロシアにとって脅威であったし、中国への進出を狙っていた、ドイツ、フランスにとっても不都合であった。この強引な横槍に、日本政府は怒ったが、それらの強国と敵対することはこの段階では無理であった。日本政府は、勧告に従い、遼東半島を清国に返したのである。しかし、国民はそうはいかなかった。日本国内は、ロシアに対する怒りであふれた。反ロシアの感情は国内に満ち満ちた。有力なジャーナリスト、三宅雪嶺は新聞紙上で有名な「臥薪嘗胆」を書いた。今は屈辱に耐え、いつの日かこの屈辱を晴らすのである。そのためには、軍備を整え、ロシアとの戦争に備えなければならない。日本政府も国民もこの一点に集中したのである。そのことは、日清戦争で清国から得た賠償金の84%が、軍備拡大のために使われたことからも分かるのである。日本国内の反ロ感情は、朝鮮国情勢においてもますます高まっていった。

 日清戦争の勝利によって、清国の朝鮮国における影響力を排除した日本は、その後、朝鮮国に対する干渉をますます強めた。親日的政府を朝鮮国に立て、日本の影響力を増す政策を進めさせた。しかし、なかなかうまくはいかなかった。特に、3国干渉が起きて以後、朝鮮政府は、日本のロシアに対する弱腰を見ると、ロシアへの接近を強め、日本のいうことを聞かなくなった。また、それを機に、反日的であった王妃、閔妃一派が政権に復活するとそれはますます顕著となった。日本国内には閔妃に対する反感が高まっていた。こうした中で起きたのが“閔妃暗殺事件”である。一国の王妃を白昼堂々と他国の高官が殺害するという前代未聞の大事件であった。以下がその経過である。

 1895年10月8日の早朝、50人ほどの日本人が、軍人を連れ、日本刀を抜いて、突然朝鮮王室の王宮(景福宮)を襲い、警備兵を殺し、宮殿内に押し入り、止めるものを切り殺し、王妃の寝室を襲い、王妃とともにお付きの女官も斬り殺し、王妃の死体を王宮の庭で焼き払った。その後、血のついた日本刀を抜いたまま、王宮を出て、意気揚々と道路を歩いて帰った。この事件の一部始終は二人の外国人によってみられており、(アメリカ人の技師、ロシア人の軍人)後に外国に知らされ、外国の新聞で大きく報道された。このため世界の国々が日本を批判した。日本政府は世界の世論を納得させるために一応、この事件の首謀者と見られる人々を捕まえ、裁判にかけた。広島で行われたこの裁判は結局“証拠不充分”ということで首謀者全員を無罪とした。

 中心人物であった日本大使館公使“三浦悟桜”は国民的英雄として広島の人々に迎えられ、明治天皇もこの男に賛辞の言葉を贈った。三浦悟郎が無罪になり、東京に帰ると天皇の侍従長が彼を訪れ「陛下は“やる時はやるなあ”と感心していた」と伝えた。彼の乗った列車が広島をたつ時、駅や線路は民衆で埋まり、「万歳、万歳」の声で埋まった。

 しかし、この事件以後、日本の朝鮮に対する支配は弱まり、王妃を殺された朝鮮国王“高宗”はロシア大使館に逃げ込みロシアとの関係を強めた。日本とロシアの朝鮮をめぐる対立がこの後強まり、日露戦争へと進んでいったのである。

コラム 閔妃暗殺
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 歴史的大事件である“閔妃暗殺”は、どういうわけか日本の教科書にはまったくと言っていいほど書かれてこなかった。それどころか日本においては閔妃は悪女の代表のように言われてきた。日本にとってこの事件、およびこの人物は不都合なものだったからだろう。一方、韓国、朝鮮においては閔妃は国を日本の侵略から守るために戦った才女として評価されているという。一人の人物が国によってまったく正反対の評価を受けていることは、歴史がいかに「国家によって利用」されてきたかを示すよい例である。事実を客観的に書くことが歴史学の第一歩である。その上での評価は各個人の価値観によるであろうが、事実を書くことを避けるようでは「歴史にもなっていない」歴史教育をしていることになるのである。

2-1-6 義和団の乱と北清事変
 アヘン戦争以来の清国政府の対外政策の弱体ぶりと、その結果としての欧米列強の国内への進出は清国国民の生活を困窮させた。そして、同じアジアの国であり小国でしかなく、近代化を始めたばかりの若い国でもあった日本との戦争に敗れたことは、清国民の政府への不信と不満を高めさせた。その不満は、日清戦争後の諸国の中国分割によってますます高まり爆発した。それが、1900年に起きた義和団の乱である。

 扶清滅洋(欧米諸国を滅ぼし、清国を助けよう)をスローガンに掲げた反乱軍は、清国政府軍を各地で破り、外国人を襲い、首都北京を占領した。反乱軍の勢いに一時、反乱軍と妥協し、外国勢力の国内からの排除を約束した清国政府も「自国民の生命と財産を守る」ことを大義名分として清国に出兵したイギリス、フランス、ロシア、アメリカ、日本、ドイツ、オーストリア、イタリアの8カ国の連合軍が北京に迫ると反乱軍を裏切り、背後から反乱軍を攻撃した。清国軍と外国軍に攻められた反乱軍が壊滅し、反乱を鎮圧すると出兵した外国は、清国政府に対して巨額の賠償金と軍隊の北京駐留を要求した。結局、清国政府は、それらの国々の要求に屈し、総額4億5000万両(当時の日本円で6億3000万円)の賠償金を支払った。すでに遼東半島の旅順港と大連市、そして南満州鉄道の租借権を清国から得ていたロシアはこの機に乗じて大軍を満州に駐留させた。このロシアの出方に脅威を感じたのが、イギリス、アメリカ、そして日本であった。ロシアが満州を占領することは、同じく中国の支配をねらってイギリス、アメリカにとっては、大きな脅威であった。中国でのこの事件に最大の2万2000の軍隊を送っていた日本にとっては、ロシアの満州占領は、朝鮮における日本の支配を脅かし、将来の満州支配をも不可能にするおそれがあった。これは明治維新以来の日本の近代化政策そのものに大きな影響を与えかねなかった。日本の国益を左右する大事件である。その意味で、ロシアを満州から引き揚げさせ、朝鮮への影響力を減少させることは、日本にとっては「国益防衛」のために絶対に必要なことであった。

 ここに、ロシアと戦う必要が迫ってきたのである。「祖国防衛戦争」としての対ロシア戦争という意味でである。「朝鮮は日本の生命線」「朝鮮半島は、ロシアから日本を守るための防衛戦」といったスローガンが政府から盛んに国内に流されるようになり、官民一体となった反ロシア、そして対ロシア戦争への好戦気分が作られていったのである。しかし、ロシアは世界の大国であり、日本にとってはとても勝てる相手ではなかった。この日本の圧倒的劣勢を補い、対ロ戦争への道を開いたのが、日英同盟の締結であった。

 日清戦争において、日本の朝鮮進出をロシアの南下政策の防壁とするために日本を支持し、不平等条約の改正に応じたイギリスは、ここにおいて、ロシアの急激な南下を防ぐために、日本をロシアの全面に立たせることにしたのである。もちろん、イギリスにも日本の勝算は計算されてはいなかった。重要なことは、ロシアに対する壁を一時的にも作ることであった。それは不可能なことではなかった。ロシア国内の情勢が不安定であったことと、ロシアにとって満州はあまりにも遠かったからである。ここに至ってイギリスは「名誉ある孤立」政策を捨て、日本との同盟を結んだのである。

 戦争への道は切り開かれたのであった。

コラム 日英同盟
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 日英同盟によって、日本はロシアとの戦争に道を開くことができたのであるが、決して、日本政府主脳が一致して、開戦を目指していたわけではない。特に、明治政府の中心人物であり、維新の元勲の一人、伊藤博文は最後まで反対であった。彼は、ロシアとの協調路線を主張した。ロシア協調により、朝鮮、満州を共同支配、開発し利益を分配してゆく方が、日本にとって利益があるとみていた。しかし、この対ロシア協調路線はイギリスにとっては脅威であった。日本とロシアが手を結ぶことによって、中国での権益を分配すれば、イギリスの利益を損ねるおそれがあったからである。

 ここにイギリスの強力な日本に対する運動が起き、それに乗ったのが対ロシア強硬派の小村寿太郎であった。国内の反ロシア感情を後ろ盾にした小村らの勢力にさすがの伊藤も敗れ、日本は日英同盟と対ロシア戦争へと向かったのである。もし、伊藤らの政策が日本の路線となったならば、日露戦争はなく、それ故に「日露戦争は、祖国防衛戦争」などというプロパガンダも消滅していたはずである。

2-1-7 日露戦争
 日本近代史上有名な日露戦争は、世界史的に見ても大戦争であった。1904年に始まる、20世紀最初の戦争であるとともに、歴史上最大の戦争でもあった。1914年に始まる、第1次世界大戦までは、日露戦争は、次々に新兵器が使われた最初の近代戦争でもあり、最初の近代海軍の大海戦が行われた戦争でもあり、100万以上の兵士が投入された最大の戦争でもあったのである。しかし、この戦争は計算され尽くした戦争でもあった。なぜならば、日本にとって、決して勝てる戦争ではなかったからである。日英同盟によってロシアとの戦争への道が開かれたとはいえども、ロシアは世界一の陸軍国であり、世界3位の海軍も併せ持っていた。つまり、世界の大軍事国家だったのである。それに対して、日本は軍隊の近代化を急いだと言っても、世界レベルではまだまだ中学生程度でしかなかった。それに、対ロシア戦実行にかかる戦費は巨額であった。財政的にも全くめどが立っていなかったのである。こんな状態の日本が対ロシア戦を実行しようとしたのには様々な計算があったからである。まず、戦場となる満州はロシア本国中心より遙か遠くにあった。満州にロシアは大軍をおいていたといえども、それを補給するには多くの日数を必要とした。ロシア海軍の主力は遠く北ヨーロッパにおり、それが日本海に出撃するには半年はかかった。また、ロシア国内の政治情勢も日本には有利であった。ロシア王室による専制支配は揺らいでいた。貴族たちの対立、農民、労働者階級の中には革命の機運が生まれていた。ロシアは十全の備えを持って戦争を戦えない状態でもあったのだ。日本がこの戦争を有利に戦うには、ロシアが戦争の体制を十分に整える前に叩き、有利な条件で講和を結ぶことであった。ただし、それはロシアが講和を望んだ場合である。もし、ロシアが戦争を最後の決着まで戦う意志を見せたなら…それは日本の敗北を意味した。緒戦に全力を注ぎ、満州のロシア軍を徹底的に叩き講和する、このために日本は対ロシア戦の作戦を練ったのである。早期の講和はイギリス、アメリカが仲介となることを引き受けた。

 講和の内容は、朝鮮における日本の支配権をロシアに認めさせることであった。満州の権益まではロシアに求めることはできないと踏んでいた。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、そのための場所まで用意した。アメリカ東海岸のポーツマスである。後は先制攻撃である。

 戦端は1904年2月8日、9日の両日、満州の旅順港外に停泊中のロシア軍艦と朝鮮仁川港に停泊中のロシア軍艦への攻撃によって開かれた。いずれも翌10日のロシアへの宣戦布告前の攻撃であった。

 緒戦において日本が全力を傾けたのが、満州におけるロシア軍の根拠地であった旅順港攻撃であった。ロシアは、三国干渉によって日本が清国に返還したこの港を清国より租借し、軍事基地として要塞化していた。この港とウラジオストック港はロシア太平洋艦隊の重要な基地となっていた。緒戦において満州のロシア軍を叩くには、大軍を一気に満州に送り込まねばならなかった。しかし、そのためには日本海の制海権を日本が握らなければならない。兵員や物資の輸送ができなければ緒戦の勝利など望めなかった。そのためには、旅順港のロシア海軍を壊滅させなければならない。日露戦争史上、名高い旅順攻撃戦は1904年7月から8月にかけて1ヶ月間行われたが、厚さ1.5メートルにもおよぶコンクリートで防御された要塞はびくともしなかった。乃木希典将軍の率いる日本軍は、近代兵器とコンクリートの前に無謀な突撃を繰り返すばかりで、1万6000名もの死傷者を出したのである。

 旅順港への攻撃が失敗を繰り返している間に、後方のロシア軍への攻撃は苦戦をしながらも日本側の有利に展開された。朝鮮から越境した日本軍と遼東半島から北上した日本軍が合流してロシアの大軍と戦ったが、兵器、兵力ともに勝るロシア軍は、どういうわけか兵力を温存したまま後退に次ぐ後退を繰り返した。有名な満州ロシア軍司令官クロパトキン将軍の退却作戦によって、日本軍は消耗を繰り返しながらも、緒戦において勝利したのである。

 後方の安全を確保した日本軍にとっての課題は旅順港であった。この要塞を落とし、全軍を後方の満州ロシア軍との戦いに向けなければならなかった。すでにロシア海軍主力であるヨーロッパにあったバルチック艦隊は日本に向けて旅立っていた。バルチック艦隊到着前に旅順港を落とさなければならなかった。第1回の旅順攻撃に失敗した日本軍が目を付けたのが203高地と日本が名付けた丘であった。旅順港を見下すこの丘を手に入れ、そこに巨砲を据え付けて、直接旅順港および、旅順要塞内を砲撃することによって、ロシア側の抵抗を排除する、これが日本側が考えた作戦であった。世に言う「203高地の戦い」である。

 ロシア側もこの高地の重要性には気がつき、防護線を十分に張り巡らせて日本軍の攻撃に備えた。あくまでも要塞正面への攻撃に固執した総司令官乃木希典も、度重なる敗戦に、203高地への攻撃に全軍を傾けることに同意した。日本本土からの増援部隊も加えた日本軍は1904年9月から203高地に向けての総攻撃を行った。しかし、ロシア軍の頑強な抵抗の前に戦況は一進一退を繰り返し、12月になって何とか203高地を手に入れたのである。

 日露戦争の趨勢を決めたこの203高地の戦いは、日本側の1万7000名もの死傷者によっての勝利であった。ロシアの近代兵器の前に突撃を中心とする白兵戦で臨んだ日本軍の戦法は、大量の死傷者を出したために、その後、総司令官乃木希典の責任問題ともなった。

 203高地を制した日本は、そこに国内から移送した28サンチ榴弾砲12門を据えると、旅順港内に停泊中のロシア軍艦を砲撃し、そのすべてを撃沈した。そして、次に旅順要塞内のロシア軍に対しても巨砲の砲弾が降り注いだのである。巨砲による攻撃と相まって、要塞に対する正面攻撃も勢いを増し、1905年1月1日、ついに旅順ロシア軍総司令官ステッセル将軍は降伏し、旅順要塞は日本軍に明け渡されたのである。この旅順攻撃戦に費やされた日数155日、日本軍の総兵力13万、死傷者6万、内、死者1万5000名という多くの犠牲者を出したのである。

 旅順要塞攻撃戦に続いて行われたのが「奉天会戦」である。旅順後方の満州ロシア軍が緒戦の敗戦後、補強を続け、大軍となっていた。これに対する日本軍の戦いは一進一退を繰り返していた。この戦況を打破するために、旅順戦参加の日本軍が北上し、満州日本軍と合流して、ロシア軍と戦ったのが奉天会戦である。ロシア軍32万、日本軍25万の計57万という大軍が相対したこの戦いは、第1次大戦まえの最大の会戦となった。ロシア軍の増強に焦りを感じた日本軍は十分な用意もなくこの大会戦に臨んだ。戦況はまたも一進一退を繰り返したが、会戦の緒戦において日本軍の作戦が功を奏して、ロシア軍主力の包囲作戦が成功しかけた。これを見たロシア軍総司令官クロパトキン将軍の再びの後退作戦に、2週間にわたった会戦も膠着状態となった。後退し、兵力温存を図ったロシア軍を追撃し、撃破するだけの力は日本軍にはなかった。砲弾を撃ち尽くしていたのである。戦力をすべて使い尽くした日本軍ができたことは、占領地にとどまることだけだった。もしこのときにロシア軍が総反撃に転じていたら、日本軍は全滅していたと言われる。しかしどういう訳か、クロパトキン将軍はそれをしなかったのである。奉天会戦における日本軍の死傷者7万、ロシア軍死傷者6万行方不明者3万であった。

 旅順要塞を陥落させ、奉天会戦でロシア軍を後退させた日本軍であったが、満州ロシア軍主力は健在であった。それどころか反撃に備えて増強を繰り返していた。それに対して、日本軍はほとんど戦力を使い果たしていた。日本軍参謀本部はこの状況を的確につかんでいた。参謀総長山県有朋は政府に対してこれ以上の戦争継続が不可能であることを告げていた。

 早期の休戦と講和条約の締結が必要であった。日本政府はこれを受けて停戦交渉を本格化させたのである。しかし、交渉を有利に進めるのは、もう一つロシアに対する戦線における勝利が必要であった。それが日本海海戦であった。

 史上最初の近代海軍の軍艦同士の海戦となった「日本海海戦」は、「東郷タッチ」と呼ばれ、その後の海戦研究上重要な戦術といわれるようになった。しかし、近年の研究では、決して綿密の練られた作戦ではなく偶然の産物にすぎないといわれる。
ロシア、バルチック艦隊は遙かバルチック海から日本海の戦場に向けて旅立ったのは、1904年10月であった。総勢40隻にも及ぶ大艦隊は、地球を約半周して、沿海州ロシア海軍基地ウラジオストック港に向けて出発したのであるが、その航海は惨憺たるものであった。

 日本政府の要請とイギリスの圧力によって、艦隊はスエズ運河を通過できず、アフリカの喜望峰を回るしかなかった。しかも、同盟国フランス支配下の港にしか寄港ができなかった。およそ7ヶ月に及ぶ航海の途中で、ロシア海軍の将兵たちは疲れ果てていた。それは、司令官ロジェットウエンスキーも同じだった。司令官、将兵ともにいち早くウラジオストック港に入港することばかりを考えていたのである。一方、日本海軍はバルチック艦隊を打ち破るべく猛訓練を続けていた。戦法は待ち伏せ攻撃であった。そのためにはバルチック艦隊の通るコースを知らなければならなかった。ウラジオストックへの道は対馬海峡か津軽海峡しかなかった。

 日本政府は、全世界に情報網を張り巡らせ、バルチック艦隊の所在を確かめていた。1905年3月26日、バルチック艦隊付属の補給船の中国上海入港をつかむと、そのコースを対馬海峡通過と定め、全軍を対馬海峡に集結し待ちかまえた。1905年3月27日、待ち伏せる日本海軍の前にバルチック艦隊は姿を現した。戦いはロシア側からの発砲によって始まったが戦況は日本側の一方的に有利な展開で終始した。日本側の圧倒的攻撃の前に捕捉、撃沈されるロシア艦艇が相次ぎ、ウラジオストック港に逃れた艦艇はわずかに3隻だけだった。

 これに対して日本側の被害は水雷艇3隻にすぎなかった。日本海軍の圧勝であった。これほどの完勝を誰しもが予想していなかったが、決してそれは意外な結果ではなかった。戦力比較において日本海軍の艦砲の数はロシアのそれを上回っていたし、「下瀬火薬」の発明により、爆発力は飛躍的に向上していた。そしてなによりも日本海軍の将兵の闘争心はロシア海軍のそれを遙かに上回っていた。ロシア海軍の将兵は7ヶ月の航海で消耗し尽くしていたのである。

コラム 日露戦争の「なぜ」
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 旅順要塞攻防戦に始まり日本海海戦に終わる日露戦争は日本軍の圧倒的勝利の内に終わったかのように日本では長く教えられてきた。しかし、近年になって、その実像が明らかになってきた。日本軍は戦力がつきるまで戦い、すでに鉄砲の弾も砲弾も使い切っていたこと。それにも係わらず、なぜかロシア軍は反撃をしなかったこと。

 全戦線においてロシア軍は全力を尽くす戦いをしなかったこと。それに日本は助けられたこと。こういったことが明らかになるにつれて、この戦争の不思議さが浮き彫りにされてきている。なぜロシア軍は全力を尽くさなかったのだろうか。クロパトキン将軍は満州ロシア軍の主力を温存させたまま休戦してしまったのはなぜか。ステッセル将軍はほぼ無傷の旅順要塞内ロシア軍全軍を降伏させてしまったのか。ロジェットウエンスキー将軍はなぜ日本海軍と正面から撃ち合わないで、逃げようとしたのか。

 日本にとっては、幸運としかいいようのないことが続いたこの戦争は、ロシアにとっては実はあまりしたくない、気乗りのしない戦争だった。なぜならロシア自身がその国内に崩壊の危機が迫っていたからである。それを知っていた将軍たちは、自らのロシアにおける今後の身の振り方の方が重要だったのである。

コラム 日露戦争のドラマ化
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 史上名高い「日本海海戦」であるが、よく言われるような「名戦略」「名将」による日本海軍の勝利ではなかった。確かに、日本側は十分に準備もしたし、戦力も十分であった。

 しかし、東郷元帥指揮の日本海軍は有名な「T字戦法」をとったこともないし、東郷は部下に適切な指揮をとったわけでもなかった。近年の研究では、ロシア艦艇発見後、第一弾を発砲後、Uターンし、ロシア側と平行し攻撃するという作戦を採ったことがわかっている。敵と併走しながら互いに砲撃する戦法は海戦での一般的なもので、東郷もこの戦法をとったのである。T字に見えたのは、Uターン時に、一時そのような形になったからであったらしいのである。決して戦術的にそれを選んだわけでもないし、その形での攻撃を続けたわけでもないのである。東郷元帥は海戦での常識的な戦法を採用して、ロシア海軍を攻撃したのである。では、なぜそれが「名戦術」になったのか。

 それは、日本政府による「日露戦争のドラマ化」が行われたからである。旅順の乃木将軍、日本海海戦の東郷元帥は日本政府にとって、重要な国内向けスターであったのである。乃木将軍の将としての無能ぶりは、当時の日本陸軍の中では常識であった。しかし国民にとっては、英雄でなければならなかったのである。

2-1-8 ポーツマス条約と日本人
 日本政府がロシアとの戦争を決意したときに、緒戦での全力投入と勝利、そして早期の講和が条件であったことはすでに書いた。日本にとっては大国ロシアと戦うには、それしか道はなかったのである。日本政府は戦争が始まるとともに、講和の準備を進めた。仲介はアメリカである。もともとロシアとの戦争に反対であった伊藤博文は講和を進めるためにアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトとハーバード大学で同級だった貴族院議員、金子堅太郎を特使として派遣し、大統領に講和の仲介を頼んだ。

 アメリカはこの申し出を受けた。そして、いよいよアメリカの出番であった。日本海海戦の日本勝利とともに、アメリカはロシアに対して講和に応じるように要請した。また、アメリカは、ロシアに戦費の援助をしていたドイツに対しても運動し、ロシアが講和に応じないならば、これ以上の援助をしないとロシアに告げさせた。ロシア側にもこの講和の要請に応じざるを得ない事情があった。1905年5月、首都ペテルブルグにおいて革命が起きたからである。1917年のロシア革命につながる、第1次ロシア革命ともいえるこの民衆の暴動はロシア皇帝と貴族階級を震え上がらせたのである。

 ロシアの支配体制が揺らいでいたのである。ロシアは日本との戦争よりも国内の安定を選ばなければならなかった。ここにアメリカの仲介による講和がなったのである。1905年8月10日、アメリカ合衆国北部、大西洋に面したポーツマスで日本、ロシアの講和会議が開かれた。世にいう「ポーツマス会談」である。日本はこの講和によって、日本の朝鮮半島における権益をロシアに認めさせることと、遼東半島の租借権、南満州鉄道の譲与をロシアから得ることを目標としていた。ロシア領の割譲や賠償金の要求などは当初から不可能と考えていた。しかし、交渉の段階で、これに加えてサハリン島の割譲や賠償金の支払いもロシア側には要求した。ロシアは日本の朝鮮半島における権益や遼東半島の租借権、南満州鉄道の譲与については、交渉の当初より認めたが、それ以外はがんとして譲らなかった。

 日本にとっては、当初の目的は果たしてはいたが、賠償金はともかくとして、サハリン島はどうにかしたかった。ロシアはこれ以上の妥協はしないとし、会談は決裂寸前であった。ロシア代表は「戦争を再開してもかまわない」とほのめかしさえした。事実、ロシア軍は十分にそれが可能であった。それができないのは日本の方であった。

 もっとも、ロシアにとっても、日本との戦争はもうできない状態ではあったのだが。双方の事情は互いにわかっていた以上、妥協が必要だった。それがサハリン島の南半分の日本への割譲であった。日本は当初の目的に加え、サハリン島南半分という思わぬ果実を手に入れたのである。こうして結ばれたのが「ポーツマス条約」である。この条約によって、日本は明治維新以来の念願であった、朝鮮国の完全なる支配権を手に入れ、さらなる侵略目的地である満州への手がかりをつかんだのである。まさに、日本の東アジア支配の第1歩が踏み出されたのである。

 しかし、日本政府にとっては「十分に満足のいく成果」であったポーツマス条約ではあったが、日本国民にとってはそうではなかった。日本国民には、この戦争の真実は少しも知らされてはいなかったからである。国民にとっての日露戦争は「勝った、勝ったの大勝利の戦争」であった。ロシア軍を完膚無きまでに叩いた日本の勝利、これが日本国民にとっての日露戦争であった。このことから当然のこととして、講和の条件はロシア領の大幅な割譲と多額の賠償金の獲得であった。ところが、実際の講和の内容はわずかにサハリン島南半分の割譲だけで、賠償金は無かったのである。ポーツマス条約の内容が発表されるや日本国内に講和反対の声があふれた。1905年9月5日、ポーツマス条約が日露間で締結された日に東京の日比谷公園は3万の群衆であふれかえった。集まった群衆は講和反対を叫び、日本代表団と政府の弱腰を非難した。壇上には次々に弁士が立ち、賠償金要求、沿海州ロシア領の割譲などを要求した。興奮した群衆は警官隊と至る所で衝突し、交番への放火を繰り返した。この混乱に政府は戒厳令を出した。5日から6日にかけて東京だけで219カ所の交番が放火された。世にいう「日比谷焼き打ち事件」である。戦争の真実を知らされなかった国民の悲劇であった。

コラム ポーツマス条約
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 ポーツマス条約の内容はイギリス、アメリカの承認によって決定された。それと引き替えにイギリスは中国南部における権益を、アメリカはフィリピンにおける支配を日本に認めさせた。東アジアへの進出をねらっていたイギリス、アメリカにとって、日本が満州および、沿海州で大きな勢力となることは都合が悪かった。そのためにも、日露戦争での日本の利益はこの程度が望ましかったのである。日露戦争後、イギリス、アメリカは急速にロシアと接近した。また、日本もロシアと接近し、日本、ロシア、イギリス、アメリカによる東アジア管理体制が作られた。これは、急速にアジアへの進出をもくろんでいたドイツに対抗するためであった。

コラム 飢えたオオカミ
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 薄氷の勝利といえども、アジアの小国、日本が世界の大国ロシアを破ったことは、アジアの国々に大きな衝撃を与えた。アジアの国々は19世紀以来、ヨーロッパの列強の侵略に悩まされてきたからである。アジアの国がヨーロッパの列強の一つに勝ったことは、アジア諸国の人々に民族独立の希望を与えたのである。
 イギリスの植民地にされていたインドで、独立後最初のインド大統領となったネルーは「日露戦争での日本の勝利はアジアの民衆に大きな希望を与えた」と書いた。しかし、日本がとったその後の行動は、アジアの民衆に希望を与えるものではなかった。日本はヨーロッパ列強諸国と手を結び、アジア支配に加わったからである。これを知ったネルーは、自らの間違いを「しかし、気がつくとそれは希望を与えたのではなく、飢えたオオカミをもう一匹増やしただけであった。」と書くことによって訂正したのであった。ネルーの見抜いたように、この戦争で日本は本格的に帝国主義侵略戦争を始めたのである。

2-1-9 日本人と日露戦争
 日清、日露と続いた明治時代の戦争を日本人はどのように受け止めたのであろうか。戦後を代表する人気歴史作家の司馬遼太郎は、代表作「坂の上の雲」で日露戦争を描き、この戦争を「祖国防衛戦争」と位置づけ、それに対する日本国民の好戦気分を「純粋なナショナリズム」と評価した。司馬がいうように、この二つの戦争は、国民の圧倒的支持の上になされた。明治の日本人が幕末より持ち続けた「欧米に追いつき、追い越せ」という欧米諸国に対する国民的劣等感がこの戦争によってある程度払拭されたからである。しかし、国民は戦争の実像を知らされたことはなく、ましてや、複雑な国際情勢など全く知らなかったのである。国民が知らされたことは「ロシアの脅威」であり、「清国の横暴」であり、「朝鮮国の愚劣さ」でしかなかった。

 それらの宣伝は、新興の新聞各紙によって全国に広まり、福沢諭吉をはじめとする明治の知識人たちによって確定されたのである。マスメディア、政治家、学者、そして学校の教師たち、総掛かりによる洗脳工作になにも知る由もない国民が好戦的なナショナリストになることは当然のことであった。しかし、そのような国内情勢にも係わらず、日露戦争については、日本国内に少数とはいえ、かなりの反対者がいたのである。このことは、その後の日本の数々の戦争時と比べると特筆すべきことであった。明治日本を代表する歌人「与謝野晶子」は、日露戦争に出征する弟を思って、有名な「君死にたまふことなかれ」を書いた。与謝野晶子はこの詩のなかで、「すめらみことは戦いに おほみづからは出でまさね」とかき、天皇そのものを批判した。やはり明治を代表する言論人であり、キリスト者であった内村鑑三は、日清戦争において主戦論を唱えた自らを反省し、「国が軍隊の力で、国の発展を図ろうとすることは、もっとも愚かなことである」と政府の戦争政策を批判し、「日本の戦争はかえって、アジアの平和を脅かすことであり、正気の沙汰ではない」と日露戦争を批判した。しかし、もっとも本質的にこの戦争を見抜き、批判したのが、幸徳秋水らが主催した平民新聞であった。紙上で幸徳は「この戦争は日本の利益というが、それは民衆の利益ではなく、資本家とそれの結んだ政治家の利益でしかない。民衆はこの戦争で不利益ばかりを被る。戦争によって被害を被るのは、日本、朝鮮、中国、ロシアの民衆であり、これらの民衆の連帯によって、戦争とそれを計画したものどもを倒さなければならない」と訴えた。幸徳らの主張は、日本におけるはじめての階級的史観による社会分析であり、ヨーロッパの社会主義思想の影響を受けたものであった。これ故に、政府は幸徳秋水とその一派を弾圧することになったのである。

コラム
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 日清、日露戦争についての評価は、日本でも長い間論争になってきた点である。

 日本の明治以来の発展を評価する人々は日本発展の原点と評価し、もし、日本がロシアに破れることがあったならば、日本の今はないとしている。それに対して、昭和のアジア、太平洋戦争につながる「戦争への道」の第1歩として「対外侵略政策」の始まりとして否定的にとらえる人も決して少なくはない。この二つの評価は、現在も含めて、日本の政治における保守、革新の二つの潮流の分岐点ともなってきたのである。つまり、保守政治家たちは、昭和の戦争は一応否定的に総括しながらも(超保守派にはそうではない人が多いが)明治の戦争は、日本が欧米諸国の植民地となるか、それともその仲間入りを果たせるかの試金石であったととらえ、革新政治家といわれる人々は明治から昭和の敗戦までを、日本軍国主義の時代ととらえ、その始まりをこの戦争におき、その失敗の上に1945年以後の民主主義日本が作られ、発展したととらえるのである。しかし、近年、この歴史的な議論に対して「必要悪」論が台頭してきている。それは、確かにこの戦争はアジア侵略の第1歩であったかもしれないが、ロシアの脅威に対抗し、また、欧米列強がしのぎを削る「弱肉強食の国際情勢」の中では、日本はほかにとる道があったのかという議論である。この議論は、革新といわれる人々が、従来、この戦争を「侵略戦争はまちがっている」という視点でのみ批判してきたことに対する批判であり、ある意味で弱点をついたものであった。これに対して、現在、歴史研究者の中から、明治の思想家や政治家の中に、決して「非戦論」や「反戦論」だけでなく、第3の道を明確に示した人々がいたことが紹介され始めている。それは自由民権運動の思想家であった、植木枝盛や中江兆民の思想である。植木は「無上政府論」のなかで、世界を一つの政府にまとめる「万国共議政府」を作り、各国が代議員を派遣し、世界会議を開き「万国公法」(世界憲法)を作成し、共存、共栄の世界を作ることが世界の平和と日本の繁栄にもつながると主張した。これは現代の国際連合の思想につながるものであり、不完全な現在の国連をより発展させる思想でもある。

 中江兆民は「日本がすべての軍備を廃止して、外国の侵略にも抵抗せず、礼儀正しく対すれば、外国は日本を侵略できない」と訴え、非暴力、不服従の政策こそが平和と繁栄の道であることを主張した。これは現在の日本国憲法の平和主義の思想につながるものである。これらの思想は、著名な二人の思想家によって世に放たれたが、結局は政府の戦争宣伝には勝てなかった。



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