3 大正の日本と第一次世界大戦
3-1 大正時代とはどういう時代か
1912年から1926年までの、わずか14年間しかなかった大正時代は、日本人の歴史意識の上では、極めて印象が薄い時代である。一般大衆にとっての大正時代といえば、関東大震災やいささかおつむの弱かったと言われる大正天皇のことぐらいしか思い浮かばないのである。
しかし、日本近代史にとって、大正時代は極めて重要な時代である。この時代に日本は、帝国主義列強の一国として、世界的に認知され、またそのように振る舞うようになったし、明治時代の産業革命の成果はようやく民衆生活にまで達し、都市の労働者の生活に消費生活といったものが芽生えもした。経済的に少し余裕ができた民衆の間には、文化的な欲求が芽生え、大衆文化が生まれたのもこの時代である。また、明治の民主主義的な権利の実現を求めた運動は、この時代に大いに発展した。それが、明治の自由民権運動とは違った、民衆レベルと文化レベルでの民主化運動としての大正デモクラシー運動である。このような経済的、文化的な盛り上がりのうえに、日本社会は、一見、西欧近代社会の持つ民主主義社会の実現へと向かうかに見えたのがこの時代であるが、その後、日本が歩んだ道はよく知られるように、東アジア諸国への未曾有の侵略戦争と軍国主義国家への道であった。なぜ、そうなってしまったのか、これは未だに研究し尽くされているとは思えない重要な歴史的な課題である。この問題は、第1次大戦後のドイツが世界有数の民主的憲法を持つワイマール共和国となりながら、ヒットラーの登場を許し、再び戦争への道を突き進んでしまったことと並んで人類史における大きな課題なのである。そのような観点から、大正時代を見てみたいとおもう。
3-2 第一次世界大戦と日本
3-2-1 第1次世界大戦の勃発
1914年から1918年までの4年間続いた第1次世界大戦は、参戦国30国、総人口15億人(世界人口の4分の3)、戦死者1900万人(内非戦闘員1000万人)、使われた新兵器は、戦車、飛行機、潜水艦、毒ガス、電流鉄線、といった人類史に例のない大戦争であった。なぜこのような大戦争が起きてしまったのかをまず見てみたい。
欧米の列強の植民地侵略戦争と、それの争奪戦争は19世紀以来ますます増していた。日本の日清、日露戦争もその一つであるが、列強間の対立はアジアで、アフリカで、ますます高まっていた。その対立はそのときの情勢に従って組む相手を変えていた。昨日の敵は今日の友というわけである。日本も同じで、あれだけの激戦を戦ったロシアと日本は、明治の末には日露協商を結び、友好国となっていた。ドイツに対するためである。ドイツ、この国は2度にわたる世界大戦を戦い破れた欧州の大国であるが、15世紀以来の国内の混乱によって、イギリス、フランス、オランダなどの列強諸国のように、国家統一と産業革命によって近代工業国形成を遂げることが遅れた国であった。アジアにおける後進工業国が日本であったように、欧州におけるそれはドイツであり、イタリアであった。当然のこととして、近代化達成を目指したドイツの選んだ道は富国強兵政策であった。明治日本が手本としてドイツを選んだのは、この様な共通点があったからである。ちなみに日本の明治の近代化を推し進めた伊藤博文と明治天皇をドイツの鉄血政治家ビスマルクとウイルヘルム1世になぞえるのはこのためである。
ドイツが侵略の手を伸ばしたのはバルカン半島であった。近年、ユーゴスラビア紛争で民族対立が吹き出し、長期の戦争となり、今もくすぶっているバルカン半島は民族のるつぼといわれるほどにいくつもの民族がひしめいている地域である。そして、この地域の歴史は古くはローマ帝国の支配に始まり、ビザンチン帝国(東ローマ)、オスマントルコ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国とその支配者を変えるごとに宗教もかわり、その結果、さまざまな宗教が入り乱れる地域となってしまった。各民族がそれらの宗教を取り込むことによって、民族対立が宗教対立の形を取るといった複雑な問題も抱えることとなってしまった。
13世紀以来続いた大国オスマントルコ帝国の支配が揺るぎだした19世紀後半、オスマントルコ支配下のバルカン半島では各民族の独立の気運が盛り上がった。それらの民族の後ろ盾として、この地域の支配権を獲得しようと乗り出したのが、セルビア人と結びついたロシアであり、ボスニア人と結んだオーストリア=ハンガリー帝国であった。オーストリア=ハンガリー帝国は やはり、この地域への進出をねらい、ロシアと対立関係にあったドイツを後ろ盾にしていた。
ロシアは中国を巡ってもドイツと対立し、そのために日本と結び、ドイツの急成長をおそれたイギリス、フランスはロシアと結んでいた。この複雑な図式が世界戦争への引き金になったのである。それぞれの列強諸国はアジアでバルカンで、アフリカでの、それぞれの支配地域の拡大をねらって協約を結んだのである。
大戦の勃発はボスニアで起こった。1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボを訪れていたオーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺されたのである。この事件をきっかけにオーストリアはセルビアに宣戦を布告し、セルビアの同盟国ロシアがオーストリアに宣戦、オーストリアの同盟国ドイツはロシアに宣戦布告、このようにして戦線は拡大、ついにドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、トルコの同盟国とロシア、イギリス、フランス、イタリアの連合国の戦いとなった。これが、第1次世界大戦である。しかし、実際は世界戦争ではなく、戦場は主にヨーロッパを中心となった。世界戦争といわれるのは、それらの参戦国が、戦場とは別に、世界中の植民地の分割を目指して戦ったからで、戦争の結果が世界に及んだからである。日本、アメリカといった直接関係のない国々も、この列強の争いには自らの植民地の増加をもくろんで参戦したのである。
3-2-2 第1次世界大戦と日本の参戦
第1次世界大戦は、日本にとってまたとないチャンスであった。戦場はヨーロッパであり日本には直接戦禍は及ばなかったし、欧米列強はヨーロッパ戦線に釘付けになっていて、アジアに手を回すことができなかった。アジアはまさに「空き家」同然になっていたのである。この機にアジアにおける支配範囲を拡大するにはまたとない機会だったのである。日本は大戦が始まると、すぐに日英同盟を理由にドイツに宣戦布告した。そして、中国の山東省膠州湾のドイツ租借地と南太平洋のドイツ領南洋諸島に出兵し占領した。
このようにしてアジア、太平洋のドイツ領を手に入れると、中国政府(中華民国政府)に対して21箇条の要求を出した。歴史上有名な「21箇条要求」である。このなかで日本は中国に対して、①日本が占領した、中国内の山東省のドイツ租借地の権利を日本に譲渡すること②大連、旅順及び、南満州鉄道の租借期限を延長すること③中国政府内に日本人顧問を入れることなどを要求し、中国進出の足場を固めようとした。これに対して中国政府(中華民国袁世凱政権)は拒否の態度を示し、イギリス、フランス、ロシアといった連合国列強諸国に日本へ圧力をかけるよう要請した。しかし、それらの諸国は日本の思惑通りドイツとの戦争に力を注いでおり、同盟国日本との摩擦をさけるために、日本のこの態度を黙認した。日本政府は中国政府の拒否の態度に軍隊を派遣して脅迫した。孤立無援となった中国政府は仕方なくこの要求を受け入れるしかなかった。しかし、中国政府のこのような態度に怒ったのは中国民衆であった。中国各地で激しい抗日運動がわき起こった。この民衆の運動こそが、中国政府を倒し新たな人民中国を作り出すエネルギーとなり、以後の日本の中国侵略に対する民衆の抵抗運動として展開していくことになったのである。
コラム
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日本の第1次世界大戦参戦は、日英同盟を理由に行われたが、これは日本側の一方的な行為であった。同盟には日本の参戦を義務つける項目はなかったし、イギリス側は、むしろ、日本の参戦を控えるように要求していた。イギリスにとっても、ヨーロッパでの戦争がアジアにおける日本の侵略的野心を呼び起こすことは十分に警戒していた。これに対して、日本は「野心のないこと」をイギリスに対して再三表明し、参戦理由をアジア近海におけるドイツ戦艦から連合国艦船を守るためとか、中国のドイツ領を監視することによって、アジアの平和を守るためと称して参戦したのである。
ところがいざ参戦すると前言を翻し、中国のドイツ領を占領し、アジアの平和とは関係のない南洋諸島のドイツ領まで占領してしまった。イギリスの心配したことが起きてしまったのであるが、イギリスはこれを批判することができなかった。日本はさらに、新たにアジア進出をねらっていたアメリカと交渉し、日本がドイツから奪った地域の権益をアメリカに認めさせるとともに、アメリカに対して中国への進出を認めたのである。石井―ランシング協定がそれで、これによってアメリカは中国への足がかりをえると同時に、イギリスはアメリカ、日本を敵に回すことができなくなってしまった。第1次世界大戦のヨーロッパ戦線は膠着状態となり、アメリカの参戦が連合国側にとっての勝利を確実にする切り札となっていたからである。アメリカと日本が組むことによって、双方はアジアへの進出をイギリスに認めさせることができたのである。イギリスは日本に対して地中海への日本軍艦の派遣を要請し、それを条件に日本の中国、南太平洋での権益を承認したのである。もちろん日本軍艦の派遣など何の役には立たなかったが、イギリスはそのことによって体面を作ったのである。
3-2-3 日本の軍需景気
火事場泥棒的なやり方で日本は中国、南太平洋でその支配地域を拡大したが、経済的にも大きな利益を受けることになった。これが日本の「成金景気」である。明治以後の日本の経済的発展は常に戦争に支えられたきたが、その代表的なものが第1次世界大戦後の日本の経済発展である。ヨーロッパを主戦場としたこの戦争の結果、世界の主要工業国であったヨーロッパ諸国では工業生産がストップした、このためにヨーロッパ諸国からの日本への工業製品の注文が殺到した。生活必需品から化学工業製品、金属工業、精密機械工業など、それまで日本では未発達であった工業部門の製品まで注文が殺到した。また、これまでヨーロッパ列強諸国の輸出独断場であったアジア地域への輸出も日本製品が進出した。
この結果、大戦前は大幅な輸入超過で危機的な経済状態であった日本の輸出は、1914年から1919年の5年間で4倍以上に増加したのである。また、戦争の結果、世界的な船舶不足がおき、海上輸送運賃の大幅な値上がりが起き、日本でも海運ブームが起こり、次々に海運業界への参入が行われた結果、「船成金」といわれる海運業での成功者が相次いだ。アジアへの輸出では綿糸業が同じように大発展し、日本とともに軍需景気にわいたアメリカでの需要が増大したことによりアメリカ向けの生糸産業も発展した。この好景気の結果、日本では潤沢な資金を背景に企業の新設が相次ぎ、経済規模が拡大に次ぐ拡大を遂げたのである。それは1916年から1919年ののわずか3年間に、実に12倍という空前の成長ぶりであった。各企業の利益率は平均で30から60%にも登り、株式ブームもまき起こったのである。これほどの好景気は後の1980年代の日本の土地投機による「バブル景気」まで起きなかったが、1980年代のそれがバブル=泡のようなものであったのと同じように、1910年代のものも「温室景気」と呼ばれ一時的なものにすぎなかった。戦争という破壊的行為が生み出したバブルだったのである。しかし、成金と呼ばれた一部のバブル企業家たちとは違って、明治期に起こった日本を代表する大企業はこの間に大成長し財閥形成を遂げた。三井、三菱、住友、安田の4財閥と呼ばれるこれらの財閥は銀行をバックに強力な金融資本を形成し、日本経済を支配していったのである。
コラム
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「成金」とは将棋の歩が敵陣にはいることによって金になることである。つまり、たかだか歩(最低の存在)でしかなかったものが突然金(最強の存在)になってしまうことを示している。長い間の努力の結果、金持ちになるのではなく、何かのチャンスに幸運にも金持ちになってしまった人たちのことをこう呼ぶのである。第1次大戦中の日本ではこのような成金が多数出現した。その代表的なものが鈴木商店である。鈴木商店は戦前は小さな貿易商社にすぎなかったが、社長の金子直吉の商才による鉄鋼の買い付け、海運への進出によって、1917年には年間の取引高15億円を記録するまでに成長した。その年の日本の総輸出入額が26億円の時代にである。三井物産の一社員でしかなかった内田信也が、わずか2万円で起こした内田汽船は、わずか3年あまりで資産総額6000万円の大企業に成長した。こういう例は挙げればきりが無いほどで、それぞれの企業ごとに薬成金、染料成金、紙成金、鉄成金、船成金、株成金などと呼ばれた。それらの成金たちの中には、もうけた金を遊興に湯水のように使い世間の批判を浴びたりした。中でも有名なものに、現在の日本を代表する大企業、日立製作所や日本鉱業をつくった企業家、久原房之助は朝鮮の銅山を買収したときに大阪の芸者を全部雇い、朝鮮に接待用に連れて行ったと言われている。
3-2-4 ロシア革命と第1次世界大戦の終結
日本が特需景気にわきかえっていた頃、ヨーロッパの戦線は膠着状態を迎えていた。
この状態を変え、一度に世界の政治情勢を変化させる事件がロシアで起きた。1917年2月(新暦3月)、ロシアのペテルブルグで長い戦争での生活の貧窮から労働者たちのストライキが始まった。この動きは瞬く間に広がり、数十万の労働者や市民のゼネラルストライキとなった。これに対してロシア政府は軍隊を出動させたが、押さえきれず、軍隊から兵士達の離脱も起きた。
ロシア2月革命である。これによってロシア軍は崩壊し、労働者と兵士によるソビエトが樹立された。この動きが全ロシアに広がると皇帝ニコライ2世は退位し、ロシア帝国は崩壊してしまった。2月革命は更に進展し、ボルシェビキ(社会民主労働党)指導による10月革命が起きると、ロシアに史上初の社会主義政権が誕生した。革命政権はロシアをソビエト社会主義共和国連邦と改名すると、国内の社会主義改革を進める一方、世界平和の実現のために「無併合、無賠償、民族自決」の原則を各国が守ることが必要であると宣言した。この宣言とともにソビエト政権は、独自に第1次世界大戦を終わらせるためにドイツと交渉を開始した。もちろん、ドイツがソビエトの宣言に従うはずがなく、多額の賠償金とソビエト領土の分割を要求した。
しかし、ソビエト政権は国内の体制確立を優先させなければならず、この法外な要求をのみ、ドイツ、オーストリアとの間で休戦協定が成立したのである。ソビエト革命政権は講和が成立すると、国内の社会主義改革に乗り出した。それは人類の経験したことのないものだった。
地主から土地を取り上げ、農民達に分配し、後には土地の個人所有を否定し、すべての土地を国有とした。農民は国営の集団農場に組織され、給料は国から支払われた。工場や企業、商店は資本家、経営者から取り上げられ国有化された。労働者は国営工場で働き、農民と同じように国から給料を受け取った。すべての学校、病院も公営化された。ここには資本家も地主もいない、労働者、農民だけの国ができたのである。このようなロシアにおける社会主義革命は世界に激しい反応を巻き起こした。貧しい農民、労働者からは共感を、豊かな資本家、地主からは反感を、そして世界各国、特に列強諸国は当然のこととして猛烈な反発を起こしたのである。この両方の反応が以後の世界の歴史を大きく変えることとなった。
ロシア革命によって第1次世界大戦の西部戦線での膠着状態が破れると同時に、東部戦線ではアメリカの参戦により、ドイツは決定的に劣勢に立たされた。長引く戦争によって食料と物資の不足に悩まされていたドイツ国民の中に戦線の劣勢は、厭戦気分を蔓延させた。同盟国オーストリアでは、ロシア革命の影響からオーストリア支配下の各民族の独立気運が高まり、独立運動が起きた。ドイツ、オーストリア両国民は、これ以上の戦争の継続を望まなくなっていたのである。オーストリア=ハンガリー帝国内では次々に各民族が独立を宣言し、大戦から離脱すると、1918年10月、オーストリアも一方的に連合国と休戦協定をむすび戦線を離脱した。するとドイツでも終戦気運が盛り上がった。これに対して、ドイツ政府は戦争継続の方針を宣言したが、1918年11月キール軍港での水兵の反乱が起きるとドイツ全土へ波及しドイツ革命へと発展した。革命の進展によってドイツ帝国皇帝ウィルヘルム二世はオランダに亡命し、ここにドイツ帝国は崩壊し、ドイツ革命政府は連合国との休戦協定に調印し、第1次世界大戦は終了した。
3-2-5 ロシア革命干渉戦争と日本のシベリア出兵
第1次世界大戦がもたらしたものは多いが、その中でもその後の世界に大きな影響を与えることになったのが、ロシア革命とベルサイユ条約である。ロシア革命は歴史上最初の社会主義国を生み出し、まがりなりにもロシアの地に「社会主義社会」が成立したのである。そのことは世界の「資本主義」の国々とその支配層である資本家や地主層を驚愕させた。それぞれの国々も国内に社会主義革命を目指す、政党や集団をかかえていたからである。それらの人々がこの革命の影響で運動を活発化させることは明らかであったし、また労働運動への影響も計り知れないものがあった。各国政府はロシア革命の火の粉が自国に降りかかる前にこれを消してしまえと考えた。ここに、ロシア革命に反対する国際連合ができあがったのである。中心になったのがイギリス、フランス、アメリカ、日本である。この干渉戦争はロシア国内の反革命勢力を支援する形で行われた。イギリス、フランスはバルト海地域やウクライナ地方での反革命勢力を支援し、アメリカ、日本はシベリア地域での反革命勢力の支援を行った。
しかし、この中でもっとも積極的に活動し、支援だけでなく自国の軍隊を大量に送り込んだのは日本であった。「シベリア出兵」と言われる日本のロシア革命への干渉戦争は、欧米列強の干渉戦争とは全く別の目的で行われたのである。第1次世界大戦中にシベリアに捕虜として抑留されていたチェコスロバキア軍を救出するためと称して、アメリカ、日本が行ったシベリアへの出兵であったが、日本はこれを東アジア地域での日本の領土拡大の好機と考えた。大戦初期に中国や南太平洋におけるドイツ領を労せずして手に入れた日本にとって、干渉戦争は再び領土拡大の絶好の名目を与えてくれたのだった。日本の東アジアにおける勢力拡大をおそれていたイギリス、フランス、アメリカも日本の出兵に文句を付けることはできないと読んだのである。チェコ軍救出だけでなく、ロシア帝国残存軍の一部もシベリアにあり、革命政府に抵抗していたのである。これへの支援も大義名分となった。日本政府はアメリカの要請や連合国の要請を理由に、当初、日米で合計7000人ほどの出兵をアメリカと約束したが、その後、この約束に反して1918年8月の日米合同出兵に際して、7万2000人の大軍を東シベリアに出兵した。アメリカとの密約によるシベリア分割において、有利な立場をえようとしたからである。しかし、日米の思惑は見事に失敗した。簡単と思われたシベリア支配は、東部シベリアの民衆だけでなく、中国東北部や朝鮮北部の民衆の抵抗によって阻まれたのである。
東アジアの民衆は日本軍を侵略者として迎えた。もし、この侵略者を認めたならば自分たちの明日はないと考えたのである。これが抗日パルチザンとなって各地でゲリラ闘争を行い、日本軍を苦しめたのである。また、侵略者日本軍の支援を受けたロシア反革命勢力は、地主や貴族の支配するロシアの復活をねらっていた。このような集団を民衆が支持するわけがなかった。ロシアでソビエト革命政権が地盤を固めるにつれて反革命勢力は次々に敗北していった。
このような情勢の中で、反革命勢力を支援していたイギリス、フランス、アメリカは、次々に支援をうち切り、自らも干渉戦争の戦線から離脱していったのである。しかし、日本はシベリアから撤兵しなかったのである。1920年の1月にアメリカが撤兵してから、1925年に北樺太から最後の部隊が撤退するまでの実に計8年にわたり、日本はシベリアへの出兵を続けたのである。この間の戦費は10億円、戦死者3500人にものぼった。このシベリア出兵が日本にもたらしたものは何もなかったのである。これだけの軍事的な失敗にもかかわらず日本軍部は全く責任をとることはなかった。この無責任な感覚こそが後の軍部の無謀な独走を生むことになり、その結果、日本中を焼け野原にしてしまったのである。一番の被害者は何も知らされないままに徴兵されシベリアに連れて行かれた兵士達であった。
彼らは、非道なるロシアの社会主義政権によって抑圧されているシベリアの民を救うためと称して戦わさられ、自分達を解放軍として迎えるはずの民衆に背を向けられ、あげくの果ては真冬の零下数十度の極寒のシベリアで、満足な暖房もなく食料もなく、戦争の目的もわからなくなり傷つき、倒れていったのである。シベリア出兵の真実については1945年の敗戦後になって、やっと日本国民に明らかにされたのである。
シベリア出兵は国内にも大事件を巻き起こした。名高い「米騒動」である。日本がシベリア出兵を宣言した1918年、物価が急上昇した。特に米の値段が急上昇した。これは出兵に際して、軍隊への米需要が急増することを見越した投資家達の米相場への投機が起きたからである。米価が上昇すると、米問屋は米の市場への供給を止めて、価格の上昇をあおった。この結果、国民生活を米不足と米価上昇がおそった。戦争への不安と夫や息子を徴兵されることへの不満、そして物価高による生活苦、この2重、3重の不満が爆発したのである。しかし、きっかけは政治家や政党による運動でも、活動家の扇動でもなかった。
1918年7月、北陸富山の漁村、魚津町の漁民の妻達40名ほどが、米の県外への積み出しの禁止を役所に訴えようと押し掛けたのが始まりであった。この主婦達の訴えは警官隊によって解散させられたが、すぐに周辺に伝わり、近隣の町村で同じような主婦達の抗議行動が相次いだ。警察力による解散にもかかわらず参加者は増え続け、数日後には各地で数百名の主婦達が金持ちや米商人の家を取り囲み「米を出せ」と叫んだ。この主婦達の行動は当時全国的に発展していた新聞によって報道された。「富山の女房一揆」と名付けられたこの運動は瞬く間に全国に波及するにいたり、警察力では押さえることができないほどに発展した。
「米騒動」になったのである。その範囲は漁村、農村、都市と広がり、米だけでなく、炭坑地域でも坑夫の暴動となった。暴動発生市町村、187カ所。参加者70万人といわれるほどの大暴動であった。新聞各紙は当初、この暴動を「生活困窮者の反乱」として、好意的に報道した。このことがよけいに暴動を拡大した。政府は、これに対して軍隊を動員して鎮圧した。動員兵力11万、さすがの騒動も軍隊には勝てず、各地で収まった。この間、わずかに2週間ほどであった。これだけの短期間に全国に暴動が拡大したのは、新聞の報道もあるが、シベリア出兵に対する民衆の不満が鬱積していたからである。
政府は、この暴動に対して厳罰主義で対応した。逮捕者は全国で25000人以上にのぼり、そのうち8300人が刑事処分された。また、この暴動を扇動したとして、新聞社への処分も下った。暴動中には各社は発売禁止、記事差し止めの命令を受け、事件後、発行責任者の処分が行われた。暴動を好意的に報道し、政府の対応を批判し続けた「大阪朝日」は発行禁止処分と責任者処分に対して、紙面で全面謝罪する事によって廃刊を免れた。しかし、以後、新聞は1945年の敗戦まで、政府批判、軍部批判をすることはなくなってしまった。
シベリア出兵は、このように軍部の失敗を認め、国民へ真実を隠蔽し、怒った民衆を弾圧し、報道の自由を奪うといった結果を残すことによって、日本のその軍国主義の発展と侵略戦争への道を切り開いたのである。
3-2-6 ベルサイユ条約と国際連盟
大戦終了後1919年1月、パリのベルサイユ宮殿に戦勝国が集まり、敗戦国ドイツとの講和条約の内容についての会議がもたれた。名高いベルサイユ会議である。この会議で決定されたベルサイユ条約こそが第1次大戦後の世界を決定した、いわゆる「ベルサイユ体制」を作り出したのである。このベルサイユ体制こそが、第2次世界大戦を起こした大きな原因となったものであり、第2次世界大戦後の世界(戦後体制)の体制までに大きな影響を与えることになったものである。ドイツとの講和の内容が中心となったといえども、会議の重要課題は3つあった。一つはドイツの処理問題、つまり、敗戦国ドイツの国家体制、ドイツの植民地処理、賠償について、二つ目は植民地の再分割と独立問題、そして三つ目がロシアの社会主義政権対策であった。この会議に参加したのは22カ国、しかし、中心になったのはイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本の5カ国であった。それらの列強諸国がこの会議を仕切ることによって、戦後世界における自国の権益を拡大しようとしたのである。日本は実際には、戦争に大きくかかわったわけではなかったが、ここにおいて、世界の列強の仲間として、その会議に加えられたのである。大国日本のお披露目の会議というわけであった。しかし、この会議は各国の利害が対立することによって決してうまくは進まなかった。
会議は実質的な第1の戦勝国であったアメリカのウィルソン大統領によって進められた。彼はこの会議を再び世界戦争のような大戦争を起こさないための世界の新秩序作りのための会議にしようと考えていた。そのために彼が主張していてのが「ウィルソンの14ヶ条」である。その内容は主に①軍縮、②協調外交、③民族自決であった。しかし、イギリス、フランスはドイツに対する徹底的な復讐心に燃えていたし、イタリア、日本はアジア、アフリカのドイツ領の確保ばかりを考えていたし、当のアメリカ自身もウィルソンの理想とは異なって中国での利権の拡大をもくろんでいた。この列強諸国の利害を中心に会議は進み、参加した他国の要求は受け入れられることはなかった。列強5カ国が唯一、手を結んだのは社会主義ロシアに対する対応であった。それが、この時進んでいたロシア革命干渉戦争であり、東ヨーロッパ、バルカン問題であった。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、トルコ帝国によって支配されていた東ヨーロッパ、並びにバルカン半島の諸民族は対ソビエト連邦への防波堤として独立が承認された。ところが、同じようにドイツに支配されていた、中国山東省は中国に返還されることはなく、日本の領有が承認された。アジア、アフリカにおける植民地独立の声は無視された。この不平等な扱いはその後、民族独立運動として爆発することになった。
ドイツに対する処遇も強烈であった。ドイツはその国外植民地をすべて没収され、ヨーロッパの自国領すら13%を割譲されてしまった。また、再び戦争を起こせないように軍備は制限され、その上、大戦のすべての責任をとるという名目で多額の賠償金を課せられたのである。この支払い能力をはるかに超えた賠償金の負担がドイツ経済を破壊し、後のナチスの台頭を許すことへとつながった。
しかし、ウィルソンの理想は、大国の利害の中ですべて消滅したわけではなかった。それが、国際連盟の設立である。世界の国々の協調こそが戦争を防ぐとする彼の考えが、世界初の世界会議を誕生させたのである。列強諸国も大戦による損害は大きく、再びこのような戦争が起きることを望まない空気は国内に満ちていた。世界的な平和への意志とウィルソンの理想が国際連盟を誕生させたのである。連盟発足時の加盟国は42,その後に63国にまで増え、世界的な軍縮、地域紛争の解決、労働者の労働条件の改善、集団安全保障の確立などのために様々な組織が作られ、活動した。しかしながら大国間の利害に阻まれたこと、設立の初期にドイツ、ソ連といった大国が加盟を許されなかったことなどから、現実的にはウィルソンの理想を実現することはできなかった。その結果として、第1次世界大戦からわずか20年で人類は更にその数倍の大戦争であった第2次世界大戦を起こしてしまったのである。
この反省の上に、第2次大戦後、国際連合が設立されたのである。日本はこの国際連盟結成時に、その中心国となる常任理事国となり、名実ともに世界の大国となったのである。
コラム
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世界史上、重要な国際連盟の設立であるが、この立て役者であったウィルソン大統領のアメリカはこの連盟に当初参加しなかった。アメリカ議会が大統領の提案に賛成しなかったからである。理由はベルサイユ条約において、ウィルソンが日本の中国山東省領有を認めてしまったことと、国際連盟の集団安保構想のなかで、アメリカ以外の地域での紛争解決のためにアメリカが出兵しなければならない可能性があったからである。アメリカ伝統のモンロー主義(大陸内孤立主義)からである。現在のアメリカの世界政策と対照的な政策であるが、このためにウィルソンは次の大統領選挙で落選してしまったのである。
3-2-7 ワシントン会議と世界軍縮
第1次世界大戦は、世界に戦争の悲惨を思い知らせることになった。この結果、戦争の回避が列強の間でも模索された。国際協調ための国際連盟の設立がそれであった。
一方で軍縮の道も模索された。このために開かれたのが1921年からアメリカ大統領ハーディングの提唱で開かれたワシントン会議である。この会議に集まったイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの列強5カ国は「海軍軍縮条約」を結び、それぞれの軍艦の保有数を5、5、3、1.6,1.6と定めた。またイギリス、フランス、アメリカ、日本の4カ国は独自に「4カ国条約」を結び、日本の中国山東省植民地の中国への返還、太平洋地域の現状維持、日英同盟の廃止を決めた。また参加9カ国、イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国の9カ国は「9カ国条約」を結び、中国の主権の尊重、中国への平等の門戸開放を決めた。これに引き続き1930年にロンドンで開かれた軍縮会議においては、イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアの5カ国によって、「ロンドン海軍条約」が結ばれ、各国の補助軍艦の保有台数の制限が決定された。これらの軍縮条約によってつくられた「ワシントン体制」は日本にとっては不利なものだった。世界平和のためということは、世界の勢力圏の現状維持が目指されることを意味したために、現状を壊すおそれのあるものが否定されたのがこの会議であった。
そのため、新興勢力であった日本の軍事力は脅威と見なされ軍縮が強制された。それはあくまでもイギリス、アメリカといった列強中の両大国を中心にした軍事バランスの維持であった。日本国内では軍縮条約を批准した政府に対して国粋主義者らを中心に批判が相次いだ。しかし、それらの大国による圧力の前に日本はそれらの条約を守らざるをえなかった。日本はその保有軍艦の中14隻を廃棄し、軍艦の新造も中止し、将兵の削減を行っ
た。
中国への進出も第1次世界大戦中の日本の空き巣ねらい的進出を列強諸国が問題としたため、中国山東省も21ヶ条要求によって中国から得た権益もすべて消滅してしまったのである。このことから日本はそれまで友好的であったイギリス、アメリカとの関係が悪化する方向に傾いていくことになったのである。中国、及び東アジアにおける日本の勢力拡大がそれらの列強大国にとって脅威となってきたからである。世界の列強にとって日本は新たなる脅威になってきたのである。その後のこれに対抗する日本の政策が、結局、第2次世界大戦へと発展していくこととなった。
このように、いくつもの軍縮のための条約が結ばれたが、これらは列強による世界支配の固定化が目指されたものであり、固定化による平和が目的であった。しかし、その根底には世界平和を求める意識があったことも事実である。その現れが1928年にパリで開かれた会議である。この会議では、世界の恒久的平和を実現するために「国家の政策手段としての戦争を放棄する」ことが話し合われ、「戦争は悪であり、犯罪である」ことが確認された。参加した15カ国がこの「戦争をしない」条約、「パリ不戦条約」に調印したことは歴史上重要なことである。以後63カ国がこの条約に調印したのである。残念ながら今だにその理念は実現されていないが、日本が第2次大戦後、新憲法において法文化した「不戦と非武装」の思想は確実にこのパリでの世界各国の人々の平和への思いを引き継いでいるのである
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